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【現代病】「独りで居る」という事【長文】 [ちょっと文筆]

実家に居る以外、都会に住む20代~の人々は概ね「一人暮らし」をしていると考えます。
かく言う私も「一人暮らし」です。

マンションやアパート等々、形態は色々あれども隣とのお付き合いは無い事の方が多いでしょう。
つまり「部屋に居る時は完全に独りぼっち」と言う状態です。

ですが、人間と言う生き物は「独りぼっちで生きる」ようには出来ていません。
「俺は独りで生きるんだ!」といくらいきがっても開墾し、苗床を作り、田植えして、収穫しなければお米ですら食べる事が出来ないのです(ジャガイモだけならもう少し簡単だけど)。
見ず知らずであっても他者との繋がり無くして生きている事などありえない訳です。

ですがその「繋がり」は認識しようとしなければ絶対に認識する事は出来ません。
また、学生なら「学友」会社員なら「同僚」、何もしていない人でも「コンビニの店員」くらいは他者と実際に接触しているので「生きていく上で必要な本当の繋がり」を探す事はますます難しくなっていきます…

今回はそんなお話

『生きる上で本当に必要な繋がり』って何?と言う疑問が湧くことでしょう。
「学友」「同僚」を否定しているように受け止められる側面もありますが、決してそうではありません。

勘の良い人は気付いているかもしれませんが「関わる事で被害を被る繋がり」って、周囲に居ませんか?
でもその繋がりを絶つ事が出来ない…そんなジレンマでもがき苦しんだ上で慣れてしまっては居ませんか?
で、独りの部屋に帰ってくると「安堵感」と「不安感」が同時に襲っては来ませんか?
まずはこんな疑問を自発的に起こしてもらいたいのです。

話を戻して…
人間と言う生き物は野生の時代のある時期から「群れをなす事で『自然界での優位性(他の生物より生存するのに優位…と言う意味)』以上の何か」を手に入れたと考えます。
進化論的に言えば集まった理由は「優位性」だけになるのですが、そこに一石を投じたいと考える訳です。
それが如実に現れているのが「現代社会」だと考え
・街に人が溢れかえっている
・でもその中では同じ群れに属している実感が無い
・逆に「独りで居る事」の方が雑事から開放され楽になる
という既に「自然界での優位性」とは方向が逆になっているにもかかわらず、それを維持し続けている「群れる構造の矛盾」が見え隠れしていると思う訳です。

では「自然界での優位性以外に獲得したものって何なの?」といういきなり核心からついていきましょう。
仮説としてですが、よく言われているものが『愛』です。
ただ「愛」と言われても正直言ってピンと来ません。
それは「愛」の意味が時代の変化に伴って限定的になってしまっているせいでしょう(主に異性に対する「好き」以上の感情に限定されている傾向が大きいと思われます)。
ですが、もう一文字足すと別の意味があることに気付きます、例えば「愛情」これは「母が子に対して抱く感情」であったり…ともっと広義の意味を持つようになります。
しかし、同時に「愛情」は「愛」とは別のものとも認識されてしまい、「愛」の持つ包括的な意味合い(愛情も愛の一側面なのに)が分断(分割)されてしまう事になっているのです。

だから「これも愛?」という宝探しに出かけなければいけません。
こんな世知辛い世の中でも、意外と「愛」はころがっています(失礼な言いざまですが…)。
老齢者に席を譲るのも「優しさ」という名の「愛」ですし、「お先にどうぞ」と言うのも「譲り合い」と言う名の「愛」です。挙げるとキリが無いくらい「別名称で親しまれている『愛』」がそこかしこに存在しています。

閑話休題

原始的な時代に獲得した「愛」は上記のもの(挙げきれなかったものも含めて)ゴチャ混ぜです。

「個」であれば「自由」はあれども「脅威」も同等に存在する事になります。
野生に生きている場合「脅威」を少しでも遠のける為に「群れ」をなす事を選んだのでしょう。
その代わり「自由」は制限されました。
制限された自由の元では「個v.s.個」の争いが絶えなかったということは自明と考えられます。
それを少しでも減らす為に「原始的な『愛』」が必要になって自然発生した…と言うストーリーはどうでしょうか?
現代科学とニューエイジの進化論に対するアプローチの落とし所としては、この辺が妥当な線だと思うんですが…

さて話をずっと進めて現代社会に投影してみましょう。

現代社会ではもはや「群れをなす必要性」の意味が変わっています。
「少しでも生き残る確率を高める為」という根本にあまり変わりは無いようですが、野生に生きている頃は「外敵は他の生物」で現代は「少しでも高い賃金(及び、雇用機会)」と具体的な目的は変化しています。

そこで改めて考え直すと「外敵からの脅威はもはや無くなった」と言う事は言うまでもありません。
「その電柱の影にライオンが隠れていて、いつ襲われるか判らない」なんて事にはならない訳です。
では「高い賃金」や「雇用機会の多さ」だけで人間は集まれるものでしょうか?
極私的な回答としては「無理!」です。
でも実際には都市に人々は集中し、昔とは違った理由で群れをなしています(言わずもがな上記理由の為)。

この状態は非常に不健全です。不健全と言う表現が不当であれば「不自然」です。
人間は突き詰めれば動物です。他の動物が自然と共に生きている事を考えても、不自然の中に身を置いている事は心身の健康上宜しい筈はありません。
その表れとして一部の人々は、緑の美しい山々や紺碧の海に憧れを抱き、時にそれに触れる為旅をします。

Lohas原理主義や野生に戻れ!的過激論を展開するつもりはありません。
ただ認識し、感じてもらいたいだけです。
感じて同意してもらえる部分が少しでもあればそれで充分です(私的には)

だいぶ話が「都会の孤独」から逸れてしまいましたが、諦めずに戻します(苦笑)

長々と述べた通り、『物質的裕福さ』を求めて人は都市部へ集まる訳ですが、その群れには愛が欠けています。
言わずもがな「物質」は奪い合うものであって、愛を持っていたら奪う事が出来ず裕福にはなれない…極論を言えばそうなります。
スケールを大きくしても同じ事で、国際社会で経済的に発展したければ情け容赦など必要ない訳です(批判逃れの為に詭弁としての情け容赦はありますよ)。

そんな世界に身を投じて、日中はその「場」に支配され続け、そこから「個」の世界へ戻ってきた時(独り暮らしの家に帰って来た時)自分ではどうしようもない「愛の欠乏」を感じる…自分自身を失いそうになってしまう…
結果、そういった嫌な感情から目を背け、次第に感じる事すら出来なくなってしまう…これが現状です。

今の時代が抱える問題をキーワードにすると『不感症』
「感じる能力が落ちている」と同時に「考える能力ばかりが肥大している」状態です。
冒頭に書いた『繋がり』を感じる事が出来なくなって孤独を感じ、それをどうにかする為に「対策を考える」。
決して「根本」に目を向けようとしない…と言うか、怖くて今更目を向けられない。

でも感情は蓄積して行き、「考える事」も止まってしまい健全に吐き出すことが出来ないと「不感症」故に「痛み」や「辛さ」などの感覚的分別が付かず、残忍な行為が平気で出来てしまう…
最近の残忍な事件類は「相手はどう感じるか?」という立場に立ったらとてもじゃないが出来ない事ばかり、不感症の産物と言うか膿ですね。

長くなりすぎたので急いでまとめます。

今、急いで改善させなければいけないのは『感じられる心を取り戻す事』だと考えます。
難しく考える必要はありません、ただ思い出せば良いだけです。
誰でも幼少期に「ドキドキ」「ワクワク」していた頃があったと思います。
子供は知識の絶対量が少ないおかげで「考える能力」より「感じる能力」に秀でています。
そんな頃の感覚をただ思い出すだけで良いんです。
簡単でしょ?

感じる心を取り戻しさえすれば、「繋がっている」事を感じられるようになり孤独と戦うことが出来ます。
それは「感情を押し殺して戦う」というネガティヴな姿勢から発せられるより強力なパワーを生み出す事が出来るのです。
キーワードは"Don't think,Feel"(byブルース・リー)

後記:
ここ最近のエントリを読んで頂ければ判る通り、強烈な個人的体験をしました。
完全に麻痺していた感覚が全部開放され、正直都会に生きているのが苦しいです。
でも、そういった状態で「不感症の群れに身を置く」事に何か意味があると思いました。

で、このエントリをまず立ち上げてみました。
正直いって、書いている内容も順番も言葉選びも推敲もハチャメチャで読むに耐えない代物です。
まだ感じた事を何とか言葉にして繋いでいるので「私個人の限界」と現状に甘んじています。

『感じること』はもしかすると生きていく上で最も大切な事のような気がします
感じることで、人は学び、経験し、その結果成長するのだと思います。


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