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【沖縄】何も無い潔さ、生命に満ち溢れる濃密さ [ちょっと文筆]

沖縄と言う土地に足を踏み入れた人も少なくないと思う(多いとも思わないが)。
ただ、その多くは「観光」の名の下「リゾート気分」を味わった…と言うパターンが確率的には多いと思う。
当然だが「パッケージツアー」的なものであれば、その方が旅行会社としてもキャッチーで客を当てやすいからである事は言うまでも無い(じゃ、言うな!w)。

わざわざ「エアーチケット手配」&「レンタカー手配」&「宿泊先予約」と全部一人で行う人は、そういう旅行が好きな人か、物凄いこだわりを持った人だけだろう。
こだわりは特に無いが、私は後者である。

沖縄の人達に対して失礼とは思うが、文化らしい文化やわざわざ足をのばして観に行く価値のあるものは今の沖縄には殆ど無い(物なら銀座の「わしたショップ」で代表的なものは手に入るし)。
それはこの本↓で、故・岡本太郎氏も述べている

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

  • 作者: 岡本 太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: 文庫



発刊から12年たった今でも、実情はさして変わってないように感じる(琉球文化を出そうとしている姿は見えるが、「リゾートに行って、ちょっとだけ地元の文化に触れる」という海外旅行のスタンスとほぼ一緒)。
地元に友人を作り、足をのばしでもしないと生々しい姿は浮かび上がってこない。

新しい文化(ダンスや音楽)の台頭が激しいのは知っての通りである。

だが、この本を読んでみて同意してしまうのである。
「物として何もない(残っていない)事も文化の一形態ではないか?」
と。

故・岡本太郎氏は著名な芸術家である事は言うまでも無いが、その感受性の高さは作品を見れば明らかである。
理由や理屈ではなく、感覚が研ぎ澄まされていなければあのような突飛(語弊あり)な作風にはならない。
敬愛する芸術家の一人である。

そのような人が沖縄で受けた感覚とはなんだったんだろう?
上記著書を読んでいくうちにワクワクする奇妙な感覚に襲われる。

先の意見について誤解を招かないよう厳密に言えば「芸術や形ある伝統の類は無い」と言うものであって、本当に「何も無い」訳ではない。
きちんと地に付いた土着の文化は存在している。
が、グローバリズムと言う名の「均一化」により希薄になってしまっていると言う方が正しいか?とも考えられる。

尚王朝時代は交易の要、その後江戸時代に入り薩摩からの本島文化の押し付け、明治時代には多少緩くなったかも知れないが第二次大戦時の皇民化政策により大日本帝国国民になる事を再び強要され…詳しい事はもっと調べてみたいのだが(知らない事の言い訳です^^;はい)幾度と無く圧制を強いられてきた。

どの土地(敢えて国とか地域とか言いません)でも同様の事は起きている。だから特別に感情移入しない。
ただ、沖縄については島民自体に独特な感性があるようなのである。
悲惨な目に会っているにもかかわらず「あっけらかん」としている(勿論「恨みま~す」も「0」じゃ無いけれど)。
この辺の感覚が「本土人と近しい民族」だからこそ不思議でたまらない。

どこぞの海を挟んだ国家は「怨み節一本」で日本と言う国を見ている。
しかしながら沖縄と言う場所はかつて「琉球王国」であり日本ではなかったにもかかわらず、現在日本に組み入れられても一部の人しか反感感情を持っていない。

教育によるものがベースにあるのは自明だが、それ以前に「島」と言う特殊な環境に何か意味があるのだろう。

ご存知の通り、夏を過ぎれば日本列島は台風の通り道である。
特に沖縄は遮るものが全く無いので、直撃すると莫大な被害を被る羽目となる。
それは昨今始まったことではなく、もっともっと昔から続いている事で、昔のほうが科学的な対策方法が無かっただけ被害は甚大だったろう。
つまり台風の過ぎ去った後には「何も残らない」といった状況だったのでは?と予想できる。
しかしながら、島民(離島、本島)は島を捨てなかった。
壊されても壊されても再建し続けた訳である、しかも当時の政府の援助も得る事が出来ずに(公的な場所には援助は出ただろうが)…このエネルギーは何なのか?

耐え続け、生き続けた者のみが獲得できる『生命力』なんじゃないかなぁ…とふと思った訳である。

個人的な話だが、20歳前後かなりの時間海の傍で過ごしていた事がある(遊びではなく)。
そこで感じたのは、例えば漁師さんの「明日生きているか分からない」と言うような感覚(言葉には出しません、が、目で訴えかけられるのです)。
『自然に畏敬の念を抱く事の大切さ』を学び、兎に角都会でウジウジと悩んでいた事がどうでも良くなっていたような事を思い出します。

そのときに感じたものを沖縄では感じたりする訳なのです。

それは『生きている』と言う事を実感する事。
シンプルなだけにこれまた判り難い。
「生きてて当然」と思っている限り「生きている実感」を得る事は出来ない(難しい)のである。

ちょっとオカルトがかった表現になるが「生かされている」という表現に真実味を感じる。
残酷な言い方だが「生きている必要が無い者は、生かされないのである」と言う事。
事故等で不遇の死を遂げた人に対して失礼に当たるのは百も承知、そして、そのような方々に対して言っているのではない事は分かって欲しい。
考えたいのは『なぜ生かされているのか?』と言う事。
腹立たしい事や、失意に打ちひしがれる事もあるだろう。
失望し、虚無感に襲われる事もあるだろう。
だが、生きている人には生き続ける義務がある

死に限りなく近い場所(死と隣り合わせの仕事や自然災害にしょっちゅう晒される地域に住んでいる…等々)に居ると、その「義務」と言うものの存在がうっすらと見えてくる。
と、考えさせられるのである。
『私は何の為に生きているんだ?』
その意味は人それぞれなので、正直言って私には分からない。
ただ、自分の事くらいは血を吐くぐらい努力すれば見えてくる。
もし見えたのであれば、即実行である。

「何も無ければ創れば良い、生きてさえいりゃなんとかなるさ」そんな根源的な生命の息吹を沖縄から感じ取れるのである…
とは言え、本島中南部では難しい。
是非、本島であれば中北部~山原に足をのばしていただきたい。
亜熱帯の原生林に囲まれ、明かりの無い夜に雲ひとつ無い星空を眺めると、えもいわれぬ生命力を感じずにはいられない。


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